昨日今日と日本の就職活動予備軍のような学生たちと会う機会がありました。
短期間にアメリカの大学生と日本の大学生と触れ合うことは珍しいので、私の考えを含みながら比較してみたいと思います。
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mikito tanimoto
学生の話をする前に、より大きな枠組みで捉えるために「音楽」の例をあげたいと思います。

音楽の世界でより早く上達する人はどのような人でしょうか。音楽で「上手い」ということはどういうことなのでしょう。音楽の世界で言えば、音が全てです。かっこよさを求めて形から入る場合もありますが、最終的に音楽家が頼るのは音です。音楽家のバックグラウンドや人間性も結局は音に出る事になります。音楽の本質はやはり音です。

では、音楽が早く上達する人はどのような人でしょうか。それは、常に「耳」で音楽を捉えている人です。音を感じ取るのはやはり耳。いかに耳に頼って練習を重ねるかがカギなのです。ところが落とし穴があります。音楽には耳に代替することのできるツールが多く存在します。そのひとつが楽譜です。楽譜は、「楽譜通りに弾けば、音楽的に上手く聴こえますよ」という決まりなのです。だから、楽譜通りに弾ければ上手く聴こえるのです。ですが逆に、楽譜通りに弾ければ楽器(音楽)が上手いかといえば、それは真ではありません。つまり、本当に良い音楽を奏でたいなら、楽譜通り弾く練習ばかりではダメなのです。結局重要なのは「耳」つまり「音」なのですから。

耳が良く発達していれば、「楽譜のこの部分はこうした方がいいかな」なんて思えるのです。これはとても重要なことです。なぜなら、音楽の本質は音であり、楽譜ではないからです。そして、この試みがトライアル&エラーなのです。耳の情報を基に修正を加えていける人がいち早く伸びていきます。なかには耳で判断できずに遠回りして音楽理論や、演奏フォームばかりに時間を費やす人もいますが、それをいちいちするのは大変な労力と時間が必要です。音楽理論やフォームが必要ないと言っているわけではありません。(かくいう自分はそこにこだわってます。)つまりは、音楽理論やフォームも「音のため」であるということを忘れてはならないということです。良い音楽を奏でるための”HOW”を学ぶことが核心であり、付随する物が重要になってはいけません。


長くなりましたが話を戻します。
私は「問題解決能力」が(本当の)テーマのディスカッションを同年代の日本人の学生たちと行いました。
そのときに感じた事は、多くの方が完全にご自分の世界に入っているということ。
もし、「AがBしたらどうなると思うか。」という質問をしたら「私はCになると思います。キリッ(思考ストップ)」
質問の意図をドブに捨てたがるというか、こういう例は枚挙に暇がないです。ここに先ほどの音楽の例を当てはめてみましょう。この人の場合、楽譜はきっちり読めるように勉強しましたタイプです。楽譜にあるような音で弾けるようになりましたが、自分が出した音を耳で確認することがありません。完全に一方通行です。「耳」というツールを持っていれば学べた「質問者の意図」など、リアルタイムで進行する学びを取りこぼします。耳というツールを持っている人が学んだのと同じ知識をこの人が学ぶのは、楽譜におこされたあとになります。文脈も新鮮さも失われた形のものを、労力と時間をかけて学びます。

他にも、情報を細かく、深く掘り下げていくことで問題の解決策が生み出せると思っている人がいるのではないのでしょうか。というより、掘り下げる作業が非常に得意な人が多いです。工事現場でいうと掘り下げる機械のプロフェッショナルです。ですが、その人は現場監督にはなれません。なぜなら、掘り下げるだけ掘り下げても、解決策は湧き出てこないからです。問題なのは掘り下げる場所です。その位置を誤らないように考えられる人材が希少です。それが現場監督です。掘り下げまくるだけで点が取れるのはゲームの世界だけです。
掘り下げ魔人に私がいつも問いたくなる質問があります。「それで、結局なんなの?」です。ディスカッションでは時間が限られてるので、一つの案に掘り下げまくっていられません。だから、視点は広く持ち、一つの事象からなるべく多くの普遍的要素を見つけ出す事が必要なはずです。掘り下げて「下へ下へ」ではなく、高い視点へ、つまり「上へ」考えていくことが重要です。これは例の「耳」ツールが必要なのかと思います。

物事の「結局はこう」を導きだす力が求められているのです。

この点アメリカ人(の学生)に感じた事は、物事の因果関係を考える力があるということです。アメリカ人がサンドイッチを作る際に数あるパンの種類とハムとチーズを選好することができることに、才能をかいま見る気がします。全てがそうとは言えませんが、彼らは自分の好き嫌いについて説明することができます。日本人としては驚きます。このハムにはこのチーズの方が合っている、このシリアルはこうだから好きじゃないんだ・・・などなど。日本だと、そういう部分は「空気」として省略することが多いように感じます。無意識的ですが、実際圧倒的に理由の説明が少ない言語だと思います。一方で日本人(の学生)にはひとつのことがらを分解していく才能があるように思いました。これは、助け合い信頼し合う共同体の存在によって特定の要因について考えることを排除することができた結果だと私は思います。例えば単純な例として、高いお金を払っても有名メーカーの製品を買ったりするようなものです。安くてもいいものもありそうですが、何が良い物なのか、自分では判断できないのです(これは日本人に限った事ではありませんが)。良いだろうとされているものに頼って、その代わりに調べたりする時間を自分が詳しい分野にさらに投資していくということなんだと思います。

このどちらの特徴も、すなわち理論たりえるものではありません。重要なのは自分がこれらの事実を突きつけられた時に、どう味付けして吸収するかです。それが、分析から理論を導きだすということなのかも知れません。出て来た料理を単に味わっているだけでは「上へ上へ」考えることはできないでしょう。

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