20日に行われたIVSの記事(いますぐやめて、”起業”しろ!?)を書いて整理していて、自分の心境が大きく変化しました。主だった内容については上述の記事をご覧ください。その中からひとつ、突き刺さった言葉があるので自分に対して問い直してみました。
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mikito tanimoto
    こんなところに聴きに来ているうちは、君たちは”情報消費者”

このあとにこう続きます。
    だから、帰ってすぐプログラミングでもしなさい。作る側になればチャンスがある。

私はプログラマーではありませんが、この問いかけは胸にすんなりと入って来ます。これはプログラミングに限定した話ではなく、もっと普遍的に捉えられるからです。私たちの立っている場所がどこなのか、再認識するための良いIdentifying Questionです。情報消費者になっていないか、自分に問いかけてどんな答えが返ってくるでしょうか。私はハッとしました。

私がIVSを知るきっかけになったのは、確かGoogle Readerでした。ニュースサイトを回り、情報収集をしていて見つけたと記憶しています。最新の情報の収集のためにニュースサイトは常にチェックしていました。そのおかげで新しい知識や、面白いイベントでの交流の機会を得る事ができて、非常に好循環を生み出していました。また、友人との共通言語としてのニュース記事がありました。最新の情報が就職活動に役立つ事も多いです。日増しに、生活の中で情報収集の存在感が大きくなって来ました。より多くの情報にリーチするために、効果的な方法を模索して、細かい時間も情報収集に使ってみたりしました。そうです、情報所有者が強者だったのです。

ですが、そこで先の問いを突きつけられました。確かに、”情報所有者”が強い世の中です。しかし、その”情報収集”というものに疑念が差し挟まれたのです。生活している時間の中で多くの時間を割いていた情報収集は、本当に必要なのか。ウィキリークスなどに象徴される、個人が情報という力を得る時代は、個人に情報収集を強いるのか。

...

私個人にとってですが、情報収集は終わりのないレースのようなものでした。横を見れば似たような境遇の、苦しそうなランナーがいましたが、足を止めれば置いていかれます。「最新の情報を知らないと、すぐに置いていかれてしまうぞ」という脅迫めいた観念に窒息させられそうになりながら、チキンレースは続きます。皆一生懸命ですが、明確なゴールはありません。このレースを走った先に何が待ち受けているのか分からずに走っています。何か夢が達成されるのか。希望に満ちた生活があるのか。もし、立ち止まったらどうなってしまうのか。そして、このレースが向かっている方向は未来、のような気がしますが果たしてそうだったのか?

この度、私は足を止めて、立ち止まって考えてみました。それが、私のこの一ヶ月のアメリカ旅行だったのかも知れません。私はこう思いました。止まったところで、何も起きない。当たり前っちゃあ、当たり前ですね。ですが、止まってみたという事自体が変化でした。周りの景色をちゃんと見る事ができるようになったのです。同じように、人間も見る余裕があります。そして、気付いたのは、走っている人間も、歩いていようが立ち止まっていようが、全員同じ時間が流れている事です。走っている人間が”最前線”だと思っていたけれど、全員同じ”最前線”を進んでいます。だから、ニュースで情報収集しなかったとしても、ちょっと新しい情報を知らないだけです。それだけです。また、向かっている方向は未来とは限りません。厳然と時間が流れていっているだけであり、情報収集レースの先にはなんら今日と変わらない生き方が待っているでしょう。情報消費者であり続ける限りは

止まったときに、情報収集はレース以外の形式で行う方法があった、という発見をしました。自分の走っているレーンから降りて、直線的な情報収集から、円状の情報収集に切り替える事が可能だと思ったのです。ところで、情報はそれ自体では何の意味もありません。なぜなら、情報が直接私たちに影響する事はありませんし、誰でも知り得るものであれば、なおさらそんなもの知った気になっているようでは目も当てられません。情報に付加価値を与えるのは他でもない「あなた」です。(というか自分。)人がある情報を有益だと感じるとき、自分なりの意味付けを行っています。その意味付けがあってこそ、情報が生きるのです。その考え方が「キュレーション」という考え方です。人間はその場で情報の意味付けを小さい規模で行っていますが、キュレーションは意味付けという行為がより高度になった場合の話です。では、このキュレーションがどう情報収集に影響を及ぼすのでしょうか。チキンレースから離脱することができるのでしょうか。

キュレーションを行う人はキュレーターということになります。キュレーターは池上彰のようなものです。つまり、ある事についてある程度詳しくて、何故アメリカが〜したのが重要なのか?など、何かについて教えてくれる人のことです。分かりやすいのでみんな納得するし、情報の咀嚼の仕方がわかってハッピーですね、ということです。また、私たちの専門外の話であっても、私たちが専門的な勉強をすることなく理解できるような教え方です。ただの情報と違って相手は人間ですから、質問したら、「良い質問ですね」とかいって返してくれるわけです。このキュレーターが、上述の問題や、次の点を解決してくれるのです。

(情報収集はネットの中だけの話ではありませんが、世界の情報の90%以上がネットの中にあると言われています。現在の情報過多は間違いなくネットの影響だと言えます。情報収集は今やかなりの割合でネットに頼っている状態でしょう。なので、ネットに置ける情報収集について焦点を当てます。




・良質な情報源の発見
無限に広がるインターネットの中を自分で探しまわらなくても、友人が”いいサイト”教えてくれることがあります。それは、友人というキュレーターという存在を通した情報です。何かしら価値を見出すことができそうな情報だと言えます。そして、この事がわかるだけで大幅な時間短縮になります。根本的には、今見ているサイトが本当に良質なサイトかどうか、疑ってかかるということが重要なわけです。

・情報過多の解決
世の中に無駄な情報は多いです。まじめなニュースより特ダネの小倉さんの小ネタの方が良い時すらあります。そんな情報過多な中から、自分に必要な情報を個人個人で探すのは時間がかかりすぎます。効率化が最善手とは思いませんが、こればかりはいらない情報を排除しないと、情報収集に追われる生活になります。良質な友人の一言に耳を傾けてみましょう。

・専門性の保有
時間がないのに、あれもこれもやってみようとしていませんか?そうしていると結局どの分野にも自分の強みが持てません。情報収集でも同じです。分野の選定と集中が必要です。キュレーター同士で専門領域を分業して情報収集することで自分の専門分野を持ち、のばす事ができます。皆バラバラに活動して、同じことをやるのは非常に非効率的だと思います。自分の軸足を決めて、各々が情報を提供しあったら質と量の両方が保たれるのではないでしょうか。

・時間の削減
社会人になるとどうしても自分がしたい社会的行動をする時間がとれない、ということがあると思います。これと同じ事が今回の争点になっています。私は「情報消費者から抜け出したいが、情報収集に時間がかかりすぎてムリ」となってしまっていたのです。つまり受信専門のアンテナになっていたのです。しかし、アンテナであるなら外へ発信することも可能なはずです。そのためにも、発信する時間を守る。協力しあえば、今まで通りかそれ以上の情報収集を短時間で実現することができます。

以上がキュレーションがこれから注目されそうだという根拠だと考えました。これらを実現し、情報消費者から発信・創造を行う側へと転換することが大事なんだと思います。”直線的”な情報収集から、好循環を生み出す視野の広い、他人と影響し合う”円状”の情報収集へ変えていくということをしてみましょう。それは有機的なコミュニティから生まれるものだと思います。そして、情報は「作る」という行為によってむこうから勝手に寄ってくるのかもしれません。

大切なのはいつまでも労働集約的な情報消費者のままでいないで、どうにかして作る側になれってことだ。


 
本日は Infinity Ventures Summit サマーワークショップというIT業界の経営者に話を伺うカンファレンスに顔を出してきました。慶応義塾大学の協生館をお借りしたこのイベントの登壇者は豪華絢爛。無駄遣いと言えるほど各分野の著名な会社の経営者が軒を連ねました。観衆は400名を越える様々な大学の学生。Ustreamでの中継も行われました。ハッシュタグは#IVSです。まとめ→http://togetter.com/li/176811
Infinity Ventures Summit (http://www.infinityventures.com/ivs)
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今回、経営者のライブトークとプレゼンを立て続けに24人分(モデレーター含む)拝聴して感じた事はこうなります。

表面的な意見の相違はあるが、本質的にはほぼ全員が同じようなことを言っている。

もちろんこれは、”同じようなこと言ってたから無駄だった”ということではありません。むしろ、経営者という人種になんらかの共通項が見出せた事が最大の収穫でした。そして、彼らが言わんとするストーリーをぼんやりと妄想する事ができました。彼らの言葉のピースを繋ぎ合わせて私はこう解釈します。



    本当に自分のやりたい事、そのためにやるべき事はなんなのか?

    その達成のために、他人との摩擦を恐れて自分の情熱を消耗させるな。

    その達成のために、常に学べ。

    批評家になるな、未来を作る側になれ。

    情報消費者になるな、情報を作る側になれ。

    大きなビジョンを描け。

    信頼し合える仲間を作れ。

    結果にこだわれ。

    現時点で自分の置かれている心地よい環境に甘んじる事なく、新たに挑戦的な行動を起こせ。



これらの言葉の向こうに貫通しているものが一筋見えてくるような、そんな熱いメッセージ自らが持てるものを最大限駆使して、答えのない問いに挑んでいるという姿勢に、気迫の説得力があります。どの登壇者も「明確なゴールはないから、いまでも自分は道半ば。あたかも成功者のように扱われるのは違和感がある。けれども、人より色々経験したから、心得ているつもりだ。」という雰囲気をたたえていました。自信過剰ではなく、自信を持てる何かを得た結果、正当に主張しているということではないでしょうか。それができるのは”自分”というものに真剣に向き合っているから。だからこそ、他人に高い要求を突きつけられる存在でいられるのでしょう。その刺し違えるほどの真剣な関わり方が、カリスマ的な魅力の根源になっている気がします。そして、彼らがともに歩む仲間を選ぶ基準は「実力」ではないということ。実力がなくては話になりませんが、最終的には一人の人間として、深く意思疎通ができるかということに尽きるようです。付け焼き刃のおべっか使っているようでは、何も進歩することはないでしょう。

学生という視点を付け加えるならば、IVSのセッションが訓示したものは
[各論]
    「なんのために就職活動するのか考えてみろ。」
    「学生という枠にはまってるだろ、自覚しろ。危機意識を持て。」
    「自分の仕事のあり方を自分で切り開いて行け。」
[総論]
    「本質を見抜いて、考えに考え抜いて、自分で歩け」

と、私はそう感じました。枝葉末節はいらない、他人がどう考えているかは気にしない、自分で考え、自分で行動する。そういった意味で、本質以外のものを「今すぐやめて」しまえ、と。・・・ですが、そんなこと誰もができるわけではありません。誰しも彼ら経営者の言葉に熱くなり、自分もそうありたいと思いながらも、自分にうそぶいては言い訳がましく、いつも通りのぬるま湯に浸かります。

Be uncomfortable. "居心地の悪い環境であれ"

これに尽きると思います。環境が人を形作るのは間違いないと思っています。ですから、脳みそをフルに回転せざるを得ない状況を作る必要があります。安穏と情報消費者に甘んじる事なく、凍える外気にさらされても未開の地に踏み入れるべきだと、そう思います。その意味で自分も作る側であれ、「生業を起こせ」ということです。「起業しろ」というのは何も、「会社を起こせ」のように狭義に捉えて欲しくないと思います。自分が答えのないものに挑戦する事で初めて得られる視界を見ろ、という意味で書きました。自戒を込めて。だから、誰かに迎合する事なく、自分の存在を証明するビジネスに果敢に挑んでみろ!ということです。

その意味で、

いますぐやめて、起業しろ!



 
昨日今日と日本の就職活動予備軍のような学生たちと会う機会がありました。
短期間にアメリカの大学生と日本の大学生と触れ合うことは珍しいので、私の考えを含みながら比較してみたいと思います。
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学生の話をする前に、より大きな枠組みで捉えるために「音楽」の例をあげたいと思います。

音楽の世界でより早く上達する人はどのような人でしょうか。音楽で「上手い」ということはどういうことなのでしょう。音楽の世界で言えば、音が全てです。かっこよさを求めて形から入る場合もありますが、最終的に音楽家が頼るのは音です。音楽家のバックグラウンドや人間性も結局は音に出る事になります。音楽の本質はやはり音です。

では、音楽が早く上達する人はどのような人でしょうか。それは、常に「耳」で音楽を捉えている人です。音を感じ取るのはやはり耳。いかに耳に頼って練習を重ねるかがカギなのです。ところが落とし穴があります。音楽には耳に代替することのできるツールが多く存在します。そのひとつが楽譜です。楽譜は、「楽譜通りに弾けば、音楽的に上手く聴こえますよ」という決まりなのです。だから、楽譜通りに弾ければ上手く聴こえるのです。ですが逆に、楽譜通りに弾ければ楽器(音楽)が上手いかといえば、それは真ではありません。つまり、本当に良い音楽を奏でたいなら、楽譜通り弾く練習ばかりではダメなのです。結局重要なのは「耳」つまり「音」なのですから。

耳が良く発達していれば、「楽譜のこの部分はこうした方がいいかな」なんて思えるのです。これはとても重要なことです。なぜなら、音楽の本質は音であり、楽譜ではないからです。そして、この試みがトライアル&エラーなのです。耳の情報を基に修正を加えていける人がいち早く伸びていきます。なかには耳で判断できずに遠回りして音楽理論や、演奏フォームばかりに時間を費やす人もいますが、それをいちいちするのは大変な労力と時間が必要です。音楽理論やフォームが必要ないと言っているわけではありません。(かくいう自分はそこにこだわってます。)つまりは、音楽理論やフォームも「音のため」であるということを忘れてはならないということです。良い音楽を奏でるための”HOW”を学ぶことが核心であり、付随する物が重要になってはいけません。


長くなりましたが話を戻します。
私は「問題解決能力」が(本当の)テーマのディスカッションを同年代の日本人の学生たちと行いました。
そのときに感じた事は、多くの方が完全にご自分の世界に入っているということ。
もし、「AがBしたらどうなると思うか。」という質問をしたら「私はCになると思います。キリッ(思考ストップ)」
質問の意図をドブに捨てたがるというか、こういう例は枚挙に暇がないです。ここに先ほどの音楽の例を当てはめてみましょう。この人の場合、楽譜はきっちり読めるように勉強しましたタイプです。楽譜にあるような音で弾けるようになりましたが、自分が出した音を耳で確認することがありません。完全に一方通行です。「耳」というツールを持っていれば学べた「質問者の意図」など、リアルタイムで進行する学びを取りこぼします。耳というツールを持っている人が学んだのと同じ知識をこの人が学ぶのは、楽譜におこされたあとになります。文脈も新鮮さも失われた形のものを、労力と時間をかけて学びます。

他にも、情報を細かく、深く掘り下げていくことで問題の解決策が生み出せると思っている人がいるのではないのでしょうか。というより、掘り下げる作業が非常に得意な人が多いです。工事現場でいうと掘り下げる機械のプロフェッショナルです。ですが、その人は現場監督にはなれません。なぜなら、掘り下げるだけ掘り下げても、解決策は湧き出てこないからです。問題なのは掘り下げる場所です。その位置を誤らないように考えられる人材が希少です。それが現場監督です。掘り下げまくるだけで点が取れるのはゲームの世界だけです。
掘り下げ魔人に私がいつも問いたくなる質問があります。「それで、結局なんなの?」です。ディスカッションでは時間が限られてるので、一つの案に掘り下げまくっていられません。だから、視点は広く持ち、一つの事象からなるべく多くの普遍的要素を見つけ出す事が必要なはずです。掘り下げて「下へ下へ」ではなく、高い視点へ、つまり「上へ」考えていくことが重要です。これは例の「耳」ツールが必要なのかと思います。

物事の「結局はこう」を導きだす力が求められているのです。

この点アメリカ人(の学生)に感じた事は、物事の因果関係を考える力があるということです。アメリカ人がサンドイッチを作る際に数あるパンの種類とハムとチーズを選好することができることに、才能をかいま見る気がします。全てがそうとは言えませんが、彼らは自分の好き嫌いについて説明することができます。日本人としては驚きます。このハムにはこのチーズの方が合っている、このシリアルはこうだから好きじゃないんだ・・・などなど。日本だと、そういう部分は「空気」として省略することが多いように感じます。無意識的ですが、実際圧倒的に理由の説明が少ない言語だと思います。一方で日本人(の学生)にはひとつのことがらを分解していく才能があるように思いました。これは、助け合い信頼し合う共同体の存在によって特定の要因について考えることを排除することができた結果だと私は思います。例えば単純な例として、高いお金を払っても有名メーカーの製品を買ったりするようなものです。安くてもいいものもありそうですが、何が良い物なのか、自分では判断できないのです(これは日本人に限った事ではありませんが)。良いだろうとされているものに頼って、その代わりに調べたりする時間を自分が詳しい分野にさらに投資していくということなんだと思います。

このどちらの特徴も、すなわち理論たりえるものではありません。重要なのは自分がこれらの事実を突きつけられた時に、どう味付けして吸収するかです。それが、分析から理論を導きだすということなのかも知れません。出て来た料理を単に味わっているだけでは「上へ上へ」考えることはできないでしょう。
 
こんにちは
昨日、シアトルから日本へ帰国しまして、日本での生活が以前より新鮮に感じられています。
でも、またすぐに慣れてしまうのかもしれません。
毎日を新鮮な気持ちで過ごせたら素敵だと思いませんか?
そこで、毎日ひとつで良いので何か新しいことに挑戦してみるというのはどうでしょう。
同じ事の繰り返しの日々に、イレギュラーなことをすると新しい発見があるかもしれません。
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mikito tanimoto
おもしろい活動を通じてオフラインのソーシャルを作り出す都市サービスSōsh
http://jp.techcrunch.com/archives/20110707sosh/

こちらの記事で面白いサービスが紹介されています。
(本文引用)
    Sōshのアイデアはごく単純で、協同ファウンダのRishi Mandalに よれば、”おもしろいやることを見つけて共有すること”   だ。彼は、”人生はとても短いから退屈しているひまなんかない”と言い、彼によれば、ほとんどの人 は、何かをするとき、同じことを何度も何度もする傾向がある。映画へ行く人は映画ばっかり、レストランなら同じレストランばっかり、などなど。

    彼は、そこに人生の穴があると考え、そしてSōshは、その穴を埋めることをトライする。ただし、やることといっても、ユーザが住んでる都市内の範囲だ。 まずサンフランシスコでロンチしたSōshは、いくつかの方法で、ユーザに、これからやることのアイデアを与える。第一の方法はアルゴリズムだ。サイトの メインページにはドロップダウンリストがあって、そのタイトルが”I’m looking for”(私は探している)だ。そこからユーザは、やってみたいことのタイプを選ぶ。

Googleという巨大で網羅的な検索エンジンが猛威を振るっていたけれど、これからは少しスパイスの利いた検索エンジンが注目されるのかもしれませんね。日本でも慶應の学生が「かわいい検索」という検索エンジンを公開しました。

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